慈しみの瞑想の練習。
2024/05/01
こんにちは、Kazuneです。
今日は一日雨ですね。
やはり雨はなんとなく気持ちが落ちてしまいます。
さて、先日母の誕生日に家族でお寿司を食べに行きました。
母のためと言いながら、自分が食べたかったという本心が心のすみっこにあったのは否めないかもしれません。
そんな気持ちは置いといて
お寿司屋さんに到着したら、すんごい混んでました!
「えっ!ここで待ったことなんてないんですけど。」と思いましたが、そういえばその日は日曜日!
「日曜日ってこんなに混むんだ。」と愕然としました。
待っている人数も10組以上はいたでしょうか。
最初は普通に待ってたのですが、待っていることに徐々に疲れてきてしまって気持ちも落ちてきたところで
「そうだ。瞑想をしてみよう。」と思い立ちました。
私は普段瞑想の練習もしているので、ここでも練習してみようと思い立ち、ひそかに黙って寿司屋の風景を眺めて瞑想を始めます。
普通に待っていると
「はぁ、まだかな~。疲れたな~。なんでみんなこんなに食べるの遅いんだよ。早く食べ終えて席空けてくれよー。」
って思ってしまいます。
そこで、「慈しみの瞑想」
「そうか、日曜日はみんなも休みで家族で食べに来たんだな。自分たちもお寿司を楽しみにしてみんなで来たように、ここにいるみんなも家族での外食を楽しみにしてたんだね。ここのお寿司は美味しいよね。みんな食事を楽しんでるなー。」
「自分たちがお寿司を楽しみたいように、みんなもお寿司を楽しみたいと思っている。みんなが食事の時間を楽しんで平和でありますように。」
そんな言葉を心で繰り返しながら、店内を眺めている。
そんな気持ちで瞑想をやると案外早く呼ばれてしまうんですよね。
そんなものです。
やってみるとわかりますが、慈しみの瞑想はすごいパワーがあります。
今いるこの環境をどのようにとらえるか?
「混雑した寿司屋を待ち時間が長くて失敗した、と感じた後のお寿司の味と食事後の満足感」と
「混雑した寿司屋は、みんなが私と同じように食事を楽しみにしていたからで、みんなも私も美味しくいただきながら楽しんだ。みんなが幸せに食事した平和な時間と空間だったと思えたあとの満足感」
ここには大きな差があります。
目の前に広がっている光景は変わらないけど、その光景を慈しみの気持ちでとらえながら過ごすと幸せしか感じません。
長く待って疲れた。というマインドのストレスは体にストレス反応をちゃんと起こしているし、食事が幸せだったと思えれば脳には幸せホルモンが出て体もその幸せ反応を起こしてくれます。
一つ、受け取り方では嫌な言い方に聞こえるかもしれないので、先に謝っておきます。
不快だったらすみません。
ちょうどGWシーズンで、連休は旅行や観光、普段やれないことなどいろいろ楽しむことも多いと思います。
それは十分楽しんでいただいたら良いと思います。
慈しみの瞑想はさっき書いたように待ち時間が長いという私にとって不都合な状況でも幸せを見出せる瞑想です。
ようは「日常は常に幸せに満ちている」と思えます。
慈しみで世界を見れている場合はいつも幸せなので、幸せを求めて旅行をしたいとか楽しいことをしたいという気持ちは薄いんです。
(私はそんなにできた人間ではございませんので、普段はもちろん悩み苦しんでます。)
旅行やイベントなど楽しむのはそれも幸せなので、良いことですが、いつもは仕事、人間関係などなどのストレスを抱えて「我慢している」そのストレスを晴らすために旅行やイベントを楽しむのは、本当に人生を楽しんでいるとはいえないかもしれません。
「慈しみの瞑想」を練習してみたい場合は座って頭に思い描いて心で言葉にしてみるところから始めてみてください。
私は幸せでありますように
私に幸せと幸せの原因が光り輝きますように
私が苦しみと苦しみの原因から解放されますように
私は幸せでありますように
私の好きな人が幸せでありますように
私の好きな人に幸せと幸せの原因が光り輝きますように
私の好きな人が苦しみと苦しみの原因から解放されますように
私の好きな人が幸せでありますように
(きつかったらここは飛ばしてもいいです)
私の嫌いな人が幸せでありますように
私の嫌いな人に幸せと幸せの原因が光り輝きますように
私の嫌いな人が苦しみと苦しみの原因から解放されますように
私の嫌いな人が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものに幸せと幸せの原因が光り輝きますように
生きとし生けるものが苦しみと苦しみの原因から解放されますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
徐々に対象に対して願い、思えるようになると結局、それは自分を楽にしてくれることがわかると思います。
川崎市多摩区 登戸、宿河原、久地のヨガとシンギングボウルのスタジオ
Root One Yoga
今日は一日雨ですね。
やはり雨はなんとなく気持ちが落ちてしまいます。
さて、先日母の誕生日に家族でお寿司を食べに行きました。
母のためと言いながら、自分が食べたかったという本心が心のすみっこにあったのは否めないかもしれません。
そんな気持ちは置いといて
お寿司屋さんに到着したら、すんごい混んでました!
「えっ!ここで待ったことなんてないんですけど。」と思いましたが、そういえばその日は日曜日!
「日曜日ってこんなに混むんだ。」と愕然としました。
待っている人数も10組以上はいたでしょうか。
最初は普通に待ってたのですが、待っていることに徐々に疲れてきてしまって気持ちも落ちてきたところで
「そうだ。瞑想をしてみよう。」と思い立ちました。
私は普段瞑想の練習もしているので、ここでも練習してみようと思い立ち、ひそかに黙って寿司屋の風景を眺めて瞑想を始めます。
普通に待っていると
「はぁ、まだかな~。疲れたな~。なんでみんなこんなに食べるの遅いんだよ。早く食べ終えて席空けてくれよー。」
って思ってしまいます。
そこで、「慈しみの瞑想」
「そうか、日曜日はみんなも休みで家族で食べに来たんだな。自分たちもお寿司を楽しみにしてみんなで来たように、ここにいるみんなも家族での外食を楽しみにしてたんだね。ここのお寿司は美味しいよね。みんな食事を楽しんでるなー。」
「自分たちがお寿司を楽しみたいように、みんなもお寿司を楽しみたいと思っている。みんなが食事の時間を楽しんで平和でありますように。」
そんな言葉を心で繰り返しながら、店内を眺めている。
そんな気持ちで瞑想をやると案外早く呼ばれてしまうんですよね。
そんなものです。
やってみるとわかりますが、慈しみの瞑想はすごいパワーがあります。
今いるこの環境をどのようにとらえるか?
「混雑した寿司屋を待ち時間が長くて失敗した、と感じた後のお寿司の味と食事後の満足感」と
「混雑した寿司屋は、みんなが私と同じように食事を楽しみにしていたからで、みんなも私も美味しくいただきながら楽しんだ。みんなが幸せに食事した平和な時間と空間だったと思えたあとの満足感」
ここには大きな差があります。
目の前に広がっている光景は変わらないけど、その光景を慈しみの気持ちでとらえながら過ごすと幸せしか感じません。
長く待って疲れた。というマインドのストレスは体にストレス反応をちゃんと起こしているし、食事が幸せだったと思えれば脳には幸せホルモンが出て体もその幸せ反応を起こしてくれます。
一つ、受け取り方では嫌な言い方に聞こえるかもしれないので、先に謝っておきます。
不快だったらすみません。
ちょうどGWシーズンで、連休は旅行や観光、普段やれないことなどいろいろ楽しむことも多いと思います。
それは十分楽しんでいただいたら良いと思います。
慈しみの瞑想はさっき書いたように待ち時間が長いという私にとって不都合な状況でも幸せを見出せる瞑想です。
ようは「日常は常に幸せに満ちている」と思えます。
慈しみで世界を見れている場合はいつも幸せなので、幸せを求めて旅行をしたいとか楽しいことをしたいという気持ちは薄いんです。
(私はそんなにできた人間ではございませんので、普段はもちろん悩み苦しんでます。)
旅行やイベントなど楽しむのはそれも幸せなので、良いことですが、いつもは仕事、人間関係などなどのストレスを抱えて「我慢している」そのストレスを晴らすために旅行やイベントを楽しむのは、本当に人生を楽しんでいるとはいえないかもしれません。
「慈しみの瞑想」を練習してみたい場合は座って頭に思い描いて心で言葉にしてみるところから始めてみてください。
私は幸せでありますように
私に幸せと幸せの原因が光り輝きますように
私が苦しみと苦しみの原因から解放されますように
私は幸せでありますように
私の好きな人が幸せでありますように
私の好きな人に幸せと幸せの原因が光り輝きますように
私の好きな人が苦しみと苦しみの原因から解放されますように
私の好きな人が幸せでありますように
(きつかったらここは飛ばしてもいいです)
私の嫌いな人が幸せでありますように
私の嫌いな人に幸せと幸せの原因が光り輝きますように
私の嫌いな人が苦しみと苦しみの原因から解放されますように
私の嫌いな人が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものに幸せと幸せの原因が光り輝きますように
生きとし生けるものが苦しみと苦しみの原因から解放されますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
徐々に対象に対して願い、思えるようになると結局、それは自分を楽にしてくれることがわかると思います。
川崎市多摩区 登戸、宿河原、久地のヨガとシンギングボウルのスタジオ
Root One Yoga