お祈りは意味があるのか? ラマダンの映像を見て。
2024/03/17
こんにちは、Kazuneです。
今日はニュースを見ていて、ずっとイスラエルとパレスチナ ガザ地区では戦闘がずっと続いているわけですが、イスラム教では、「ラマダン」という神聖な期間に入ったのですね。
それでも、イスラエルからの攻撃はやまない。ということを言ってましたが、
なにより
数えきれない多くのイスラム教徒の方がお祈りをしている姿が報道されていて、「すごい!」と単純に思いました。
ここからは主観も入っているし、自分の意見なので、不快な気分にさせてしまったらすみません。
そして、宗教について深く知っているわけでもないので、その時は私の無知を笑ってください。
それを踏まえて
イスラム教は毎日、何時と何時にこっちの方角に向かってお祈りをする。という決まりがあって、みんなそのルールを守って、外国にいようが、ルールを守っています。
日本の仏教徒がなにか一斉にしているのを見たことはないし、キリスト教徒が日曜日に教会に行くと言われていても、ぞろぞろ教会に向かうのを見たことはありません。ここまで、みんなが一体感をもってやっているのはイスラム教くらいかな?と思えるほどです。
それ自体は素晴らしいと思いますが、
そこまで敬虔に信仰しているのに、中東では(も?)戦争がなくならない。
それはどういうことなのだろうか?
ヨーガをやっていて、よくレッスン前にマントラを唱えることがあります。
マントラは神聖な言葉でお祈りです。
でも、私はマントラを重要視はしません。
他のレッスンでマントラを唱える時は合わせて唱えるし、否定するわけではないです。でも、マントラをたくさん知っているわけでもないし、普段はレッスン前にマントラは唱えません。
マントラは嫌いではありません。むしろ好きですが、「重要視」はしません。
本当にお祈りになるくらいまで唱えてない。というのもあると思いますが、
私はサンスクリット語でマントラを唱えても「唱えて満足」「言えたことで満足」してしまっていることに気づいて、あまり意味はないな。と感じました。
むしろ、瞑想前にお祈りとして
「限りのない慈しみと智慧の心を持ち、皆のために努め、励みます。飢えや争いから解放され、心が喜びに満ち、世界平和が叶いますように。」
とお祈りしてから瞑想します。
これが、マントラでもありますが、サンスクリット語で有名なマントラではなく、師のチベット僧が言うチベット語でもなく、日本語に訳された、お祈りの言葉です。
この言葉でも時間を気にしながらただ言っただけの時は全然なにも感じません。
でも、「この言葉を本気で思ってみよう。」と願いながら言葉にすると「心が落ち着く感覚ややさしい気分」を感じます。
「言葉や形式はさほど重要ではなく、どのような思いで、それをするのか?」だと思うのです。
また、毎日お祈りして、お祈りしている時間だけ神聖で、それが終わったら神聖な時間は終わりだから、嘘ついていい、殴っていい、盗んでいい、では本末転倒ですね。
お寺、神社、教会では厳かにしているけど、一歩外に出たらゴミをポイ捨てしてたらまったく意味はないですよね?
ご利益ほしさにお寺、神社、教会、モスク、という形や、ここに来て座り、手をついて首を垂れる。という形式をやってても意味はまったくない!
と思うのです。
目に見える形ではなくて、「思い」という目に見えないものに目を向ける必要があると思います。
そのきっかけがお寺、神社~モスクという場所や、礼拝という行動などの形だと思います。
「神様、私を幸せにしてください。」「戦争を止めるために敵をやっつけてください。」と思いながら祈ってても「私」は何もしないので、まったく意味はないです。
でも、
「私は幸せになりたい、戦争が終わってほしい。そのために私は敵を憎みません。傷ついた人を助けます。」
など、「私」が平和のための行動をする決意を「思って」行動したら何かが変わると思います。
けっして
スラム街にいって麻薬買おうなんて思わないはずです。
ポイ捨てしようとか思わないはずです。
相手が嫌いだからと言って殴らないはずです。
お寺、神社、モスクなどという限られた神聖な場所を自分の家、学校、自分の住む町、市、県、国と広げていけば、
相手を尊重して思いやる気持ちを神だけでなく、親、先生、友人、目上の人、年下、男性女性、外国人、と広げていけば
人や物をぞんざいに扱うことはなくなるし、ましてや戦争など起こるはずもないと思うんです。
真面目にラマダンで断食したり、毎日のお祈りをしていても戦争などの争いがなくならないということは何かが間違った方向にいっているのかもしれません。
「正しく思う」ことができたら、
その行動はお祈り、断食でもいいし、会釈、手を合わせるだけでもいいし、
その言葉は、ハレ クリシュナ、アッラー、アーメン、南無阿弥陀仏、ありがとう。
なんでもいいと思います。
神聖な儀式は意味のあるものにしたいものです。
今日はニュースを見ていて、ずっとイスラエルとパレスチナ ガザ地区では戦闘がずっと続いているわけですが、イスラム教では、「ラマダン」という神聖な期間に入ったのですね。
それでも、イスラエルからの攻撃はやまない。ということを言ってましたが、
なにより
数えきれない多くのイスラム教徒の方がお祈りをしている姿が報道されていて、「すごい!」と単純に思いました。
ここからは主観も入っているし、自分の意見なので、不快な気分にさせてしまったらすみません。
そして、宗教について深く知っているわけでもないので、その時は私の無知を笑ってください。
それを踏まえて
イスラム教は毎日、何時と何時にこっちの方角に向かってお祈りをする。という決まりがあって、みんなそのルールを守って、外国にいようが、ルールを守っています。
日本の仏教徒がなにか一斉にしているのを見たことはないし、キリスト教徒が日曜日に教会に行くと言われていても、ぞろぞろ教会に向かうのを見たことはありません。ここまで、みんなが一体感をもってやっているのはイスラム教くらいかな?と思えるほどです。
それ自体は素晴らしいと思いますが、
そこまで敬虔に信仰しているのに、中東では(も?)戦争がなくならない。
それはどういうことなのだろうか?
ヨーガをやっていて、よくレッスン前にマントラを唱えることがあります。
マントラは神聖な言葉でお祈りです。
でも、私はマントラを重要視はしません。
他のレッスンでマントラを唱える時は合わせて唱えるし、否定するわけではないです。でも、マントラをたくさん知っているわけでもないし、普段はレッスン前にマントラは唱えません。
マントラは嫌いではありません。むしろ好きですが、「重要視」はしません。
本当にお祈りになるくらいまで唱えてない。というのもあると思いますが、
私はサンスクリット語でマントラを唱えても「唱えて満足」「言えたことで満足」してしまっていることに気づいて、あまり意味はないな。と感じました。
むしろ、瞑想前にお祈りとして
「限りのない慈しみと智慧の心を持ち、皆のために努め、励みます。飢えや争いから解放され、心が喜びに満ち、世界平和が叶いますように。」
とお祈りしてから瞑想します。
これが、マントラでもありますが、サンスクリット語で有名なマントラではなく、師のチベット僧が言うチベット語でもなく、日本語に訳された、お祈りの言葉です。
この言葉でも時間を気にしながらただ言っただけの時は全然なにも感じません。
でも、「この言葉を本気で思ってみよう。」と願いながら言葉にすると「心が落ち着く感覚ややさしい気分」を感じます。
また、毎日お祈りして、お祈りしている時間だけ神聖で、それが終わったら神聖な時間は終わりだから、嘘ついていい、殴っていい、盗んでいい、では本末転倒ですね。
お寺、神社、教会では厳かにしているけど、一歩外に出たらゴミをポイ捨てしてたらまったく意味はないですよね?
ご利益ほしさにお寺、神社、教会、モスク、という形や、ここに来て座り、手をついて首を垂れる。という形式をやってても意味はまったくない!
と思うのです。
目に見える形ではなくて、「思い」という目に見えないものに目を向ける必要があると思います。
そのきっかけがお寺、神社~モスクという場所や、礼拝という行動などの形だと思います。
「神様、私を幸せにしてください。」「戦争を止めるために敵をやっつけてください。」と思いながら祈ってても「私」は何もしないので、まったく意味はないです。
でも、
「私は幸せになりたい、戦争が終わってほしい。そのために私は敵を憎みません。傷ついた人を助けます。」
など、「私」が平和のための行動をする決意を「思って」行動したら何かが変わると思います。
けっして
スラム街にいって麻薬買おうなんて思わないはずです。
ポイ捨てしようとか思わないはずです。
相手が嫌いだからと言って殴らないはずです。
お寺、神社、モスクなどという限られた神聖な場所を自分の家、学校、自分の住む町、市、県、国と広げていけば、
相手を尊重して思いやる気持ちを神だけでなく、親、先生、友人、目上の人、年下、男性女性、外国人、と広げていけば
人や物をぞんざいに扱うことはなくなるし、ましてや戦争など起こるはずもないと思うんです。
真面目にラマダンで断食したり、毎日のお祈りをしていても戦争などの争いがなくならないということは何かが間違った方向にいっているのかもしれません。
「正しく思う」ことができたら、
その行動はお祈り、断食でもいいし、会釈、手を合わせるだけでもいいし、
その言葉は、ハレ クリシュナ、アッラー、アーメン、南無阿弥陀仏、ありがとう。
なんでもいいと思います。
神聖な儀式は意味のあるものにしたいものです。